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聖フランシスコ・ザビエル司祭証聖者  St. Franciscus Xaverius C.  記念日 12月 3日


 東洋に福音を宣べ伝えた宣教師の中で誰が最も名高いかと言えば、それは聖フランシスコ・ザビエルであろう。彼は1506年4月7日スペインはナヴァラの貴族の子として生まれた。不幸間もなく戦乱その他の災禍が相次ぎ、家は次第に微祿するに至ったが、それでも両親は子供達の教育に意を注ぎ、殊にフランシスコはパリの大学におくって高等の学問を修めさせた。で、彼は貧しい生活の中にも将来の立身出世を夢みつつ孜々として勉学に専念していたのである。
 所がその頃やはり同じ大学にいたのがロヨラの聖イグナチオであった。彼はフランシスコやファーベルという学生などと同じ屋根の下に起居していたが、その時分から既に一修道会を起こす決心を有し、敬虔にして有為な同志を探していたから、ザビエルに着眼し、ある日の話しに「人全世界を得るとも、もしその生命を失わば何の益かあらん」という聖書の聖言を用いてその心を引いて見た。するとザビエルは始めそれを聞いた時ただ苦笑したばかりであったが、そのうちに沈思黙考、追々真摯厳粛な思想を持つに至り、ついに1533年身をイグナチオの指導に委ね、彼をわが霊魂の父と呼ぶようになった。それから彼等はなお4人の同志を得ることに成功、かくてこの6人が新修道会イエズス会の最初の会員として、8月15日聖母被昇天の吉日を卜し、モン・マルトルの聖堂に清貧及び貞潔の誓願を立て、且つパレスチナへの巡礼を約したのであった。
 次の休暇が来るとザビエルは40日間の黙想を行い、同時に甚だ峻厳な苦行をした。それ以来彼が念とする所は、ただ天主の御光栄と主の御為に人々の霊魂を救うこと、この二つの外になかった。
 ザビエルは先ず他の兄弟達と共にイタリアに行った。それは先に約したパレスチナへの巡礼を決行する為であった。しかし折り悪しく戦争があってそれも不可能となったので、ザビエルは暫くヴェニスの病院で不治の病人の看護をした後、同志と打ち連れてローマに赴いた。
 所がある夜、彼は一人のインド人を抱いて運びあまりの重さに地に倒れたという夢を見た。彼は不思議に思って翌朝同行の友に語ったが、間もなくその夢に意味を附し得るような事が起こった。というのは外でもない。1537年6月24日ザビエルが叙階の秘蹟を受けて後、ポルトガル国王が同国植民地のあるインドに、イエズス会の宣教師を派遣するようイグナチオに命ぜられたのに、彼が選んだ二人の兄弟のうち一人が病気になって行くことが出来なくなったから、その代わりザビエルがその任を受けるに至った事である。
 彼は教皇パウロ3世から使節の称号を受けて1541年4月7日出発した。しかしこの「使節」はさながら貧者のような質素な旅行ぶりであった。そして謙遜にも他人に自分の事は一切して貰わず、自分は少しでも他人の事をしてやろうと努めた。船中の人々は皆彼のこの謙虚さと親切とに感じ、自然自分の行いも改めるようになった。
 ザビエルはインドのポルトガル領ゴアに着くとすぐさま活動を開始した。その市民の生活は宗教上道徳上から見て甚だひんしゅくすべきものがあり、風俗また宜しからず、あらゆる罪悪を犯しつつそれを普通の事と見なし恬として恥じぬ有り様であった。けれども数ヶ月経つ内には、一切が著しく改善された。聖人の教訓の言葉、ましてその実践躬行の模範には、何人も抗することが出来なかったのである。
とはいえザビエルがインドに来たのは、かようなキリスト信者の為ではなく、哀れな異教徒なるインド人の為である。故に彼は海辺に集う貧しい漁師達の所へ行き、自らはインドの言葉を語り得ぬので通訳を用いて布教し、以て多大の効果を挙げた。その授洗した者は時として月数千人の多数に上ったという。それに彼が貧民に同情を禁じ得ず熱祷を献げる所、天主はしばしば奇蹟を行い給うたが、それも彼の布教に大成功をもたらす原因となったのであった。
 彼は寧日なき活躍の傍らにも、なお厳しい禁欲克己の業を怠らなかった。彼は殆どいつも大斉し、しばしば徹宵して祈った。天主はそういう彼の日常を深く多とせられたのであろう。報いるに大いなる慰め、天来の歓喜を以てし給うた。
 海岸地方に伝道して多くの人に洗礼を授けたザビエルは、それから布教に対する熱情に駆られるままにマラッカやモルッカにも行った。途中には二度の難船を始め種々危険があったにも拘わらず、彼は飽くまでその遠隔の地に至る決心を貫徹遂行した。彼の祈り、苦行、奇蹟はその間も続いた。そして天主からやはり妙なる天上の喜悦が恵まれたのであった。
 モルッカからマラッカへ戻った時のことである。彼は里見彌治郎という一日本人に逢った。この人は本国から追放されてそこへ来ていたのである。ザビエルは彼に先ず聖教を教え後授洗した。そしてその口から日本の美しい国であること、住民の善良であることを聞き、同国へ布教の憧れを禁じ得ず、一旦ゴアに帰ってポルトガル国王代理なる総督の許可を受け、とうとう1549年(天文18年)の6月24日日本に向けマラッカを出発したのである。
 多難な航海の後ザビエルが鹿児島に到着したのは、その年の8月15日の聖母被昇天の大祝日のことであった。かの彌治郎も師に随行した。ザビエルは早速布教に着手したが、予期したような成績は得られなかった。鹿児島藩主は師に自由な伝道を許したけれど師の言葉を聞く者はまだ少なかったからである。それで彼は更に北へ行って見ようと思い立ち、此処彼処の町を訪れた後、山口へ乗り込んだ。そこの布教は前よりは成功を収めた。彼は藩主大内義隆から一つの寺を贈られ、之を教会として用いた。
 彼はまた国の首府で伝道を試みたいと思い、幾多の艱難を忍んで京都に辿りついた。けれども応仁以来の戦乱によって荒廃その極みに達した人心には、甘露の法雨も更に効なく、彼の努力は報いられず、空しく立ち帰らねばならなかったのである。
 ザビエルは1551年(天文20年)11月早くも日本の地を去った。滞在期間僅かに2年半足らずその最も長くいたのは山口であった。しかしこの国に足を留めた月日は短くても、彼が日本の使徒であることに変わりはない。彼は我が国に渡来した最初の神父であり、日本に教会を創設した功労者である。師は去るに臨んでその教会を他の宣教師の手に委ね、聖い事業の継続を計った。師は風光明媚な日本の国土を愛し、それにも増してその国民を愛した。彼の或る手紙には「日本はわが喜びである」そうした言葉さえ見られる位である。さればこそ師は後事を託すべき宣教師の派遣を求めて、頻りに上司へ書を送ったのであった。
その後カトリック宣教師の渡来する者相次ぎ、日本の南から北までキリスト教会が数多設けられるに至ったがこの隆盛を招いたのは確かに聖フランシスコ・ザビエルの絶えざる祈りと犠牲の賜物と言えよう。彼はそれから中国への伝道を志し広東に程近い上川島まで行き、そこから便宜を得て大陸に渡ろうと思い、暫く一人の中国人とマラバールの一信者と3人で、貧しい小屋で暮らしていた。所がその間に病を得、死の苦しみと闘うこと四日間、しかも殆ど絶えず天を仰いで祈り、不平がましい事は露ほども口にしなかった。そして手に小さな十字架を持ち、「ダヴィドの御裔なるイエズスよ、我を憐れみ給え!」と誦えたのを最後に、享年46歳を以てその聖なる生涯の幕を閉じた。彼の遺骸は後ゴアに移されたが、今に至るまで更に腐敗の兆しなく、容色さながら活ける如くであるという、その列聖式は1622年に行われた。


教訓

聖フランシスコの願いは唯一つ、天主を愛しその御為に人々の霊魂を救うことであった。我等も彼に倣って天主を愛し、少なくとも自分の霊魂だけはどうしても救われるように努力せねばならぬ。